ちょっとしたお話「2. 伝えたい神大」
学部単位で通うキャンパスの分かれる神大、そのために在学中知らずに終わってしまうもの・ことがたくさんあります(キャンパスが分かれていない大学でも、そんなことはざらにあるかと思いますが)。
ここでは私・うおりが伝えたいと思ったことを書きだしてみます。
(1)應援指導部
現役時代、私はその存在すら知らないに等しかった。平塚で学ラン姿を見ることは皆無、初めて應援指導部を目にしたのはおそらく、初めて箱根駅伝応援に参加した、平成9年正月だと思う。應援指導部の応援を見られるのは、体育会系団体の出場大会の場の他は横浜キャンパスでしか見られない(関係者の話では、平塚学生が大会出場する際には平塚でも壮行会を行うと聞くが、現役時代その姿を見ることはできなかった)。今でも「応援団」に出会えていない平塚学生は少なからずいるのではないかと思う。
私が應援指導部の学生たちに出会ったのは、宮陵会やホームカミングデー等OBの場にしばしば顔を出すようになって、諸先輩方と知り合うようになってからである。その御縁から部室に入れてもらったり、結婚式では生涯一世一代の記念となる応援を頂けた。應援指導部は体育会系学生にとどまらず、神大全体や神大OBにとっての応援団でもある。湘南ひらつかキャンパスでもっとお目にかける機会があればいいのだが、そのことは應援指導部の関係者たちも重々承知のようで、平塚学生を育てているとのことである。ぜひ平塚で体制ができあがることを願うばかりである。
まずは平塚祭でも演舞を披露してもらいたいなぁ。
(2)六角橋・宮面ヶ丘と土屋
横浜キャンパスという名前が付いたのは平塚キャンパス(現・湘南ひらつかキャンパス)誕生の時だと思う。だとすれば、「横浜キャンパス」という「正式名称」よりも昭和初期から呼ばれ続けてきた「六角橋」の名の方が定着しているのも無理ないと思う。時に六角橋に出かけて感じる大学と街と地域の一体化した姿、OBたちから聞くエピソード、それと在学時代に諸々の活動で毎週毎週通って感じた六角橋の風、その重さを感じるたびに、つながりの羨ましさをずいぶんと感じてきた。近年になって湘南ひらつかキャンパスと平塚市内の市民活動の間にいくつかのつながりが生まれているが、湘南ひらつかキャンパス全体をカバーするものにはなりきっていない。
もう一つ、学生時代にほとんど感じることのなかった「雰囲気」が「宮面ヶ丘」という地名の重みである。現町名には残っていないが、六角橋の歴史を語る上では欠かせない存在である。神大の歴史をひも解いて時に感じる程度であったが、宮陵会に出入りするようになり、應援指導部に出会うようになって、少しばかりこの地名が身近に響くようになった。何を感じているかと尋ねられたら答えようがないのだけれども、神大のある種の歴史を感じずにはいられないのだ。
湘南ひらつかキャンパスがこれから歴史を重ねていく中で、果して「土屋」の地名もここまで「重み」をもって定着してゆけるだろうか?ぜひそんな風に神大の歴史の中に定着していって欲しいと願っている。